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小倉百人一首の小倉とは?カルタのルールと競技、決まり字とは?

百人一首、家族で楽しんできた人も多いでしょう。学校で百人一首大会なんてあったりしますよね。

さて、その百人一首、「小倉百人一首」なんて呼び名があります。これって何でしょう。

さかのぼること、今から約730年、鎌倉時代の歌人である藤原定家が100首選んだことが由来です。

あるとき、鎌倉幕府の御家人の宇都宮頼綱の求めで、京都嵯峨野に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼したそうです。

そこで、定家が、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためたものです。

この記事では、百人一首の歴史、カルタ遊びへの変遷、競技かるたの発展について紹介しています。

今や、競技かるたがあまりにも有名になっていますが、もっと、家族で楽しめた方がいいですね。

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小倉百人一首以外の百人一首

いくつか残されている他の百人一首

古いものでは、1483年ですね。時の将軍・足利義尚が選んだ「新百人一首」なるものが有名だそうです。

また、1800年頃に作られたと言われる「後撰百人一首」もなかなか有名だという話です。
このほかにも、武士だけの和歌を選んだ「武家百人一首」や女性だけの「女百人一首」などもつくられました。

江戸時代になると、「蔵笥百首」という、言葉の学習のためにつかわれたものがつくられたそうです。

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かるたはいつごろから始まったのか

「かるた」遊びの歴史は?

「かるた」という言葉の語源はポルトガル語です。いわゆる、カードですね。それが日本の遊びの中に取り込まれて、かるた遊びになっていったと言われています。

日本古来のカードゲームとしては、平安時代に遊ばれていた「貝合わせ」というものだと言われています。

「貝合わせ」とは、二枚貝をふたつに分けて、その片方を探すといった単純な遊びだったのですが、やがて宮廷で、貝に歌や絵を書いて遊ぶようになったそうです。

これを「歌合せ」といいます。貝にそえて和歌を詠み、その和歌を競い合うというものだったんですね。

そこから、それと似た絵合わせをする「貝おおい」という遊びが生まれたそうです。さらに進歩して、「歌貝」というものに発展していきます。

百人一首のかるた遊びの原型になった歌貝

「歌貝」では、貝の形をした札が上の句、下の句ともに100枚あったそうです。そして、下の句の札を並べて、上の句を詠んで下の句を取るというものになっていきます。

かるたが百人一首を取り入れた

小倉百人一首が定着していった

その後、戦国時代の頃になると、百人一首が「かるた」として遊びのなかで定着し始めます。

しかし、それはまだ宮中とか諸大名の大奥などで行われていて、そこで一年を通して楽しまれていたようです。

印刷技術がかるたを広めた

江戸時代以前の「かるた」は、まだまだ庶民の間では馴染みの薄いものだったわけですが、江戸時代に入ると、急速に普及します。

それは、当時の木版画の技術の発展が大きく関わっているんですね。その結果、庶民の中にかるたが徐々に広まっていきます。

やがて、「民用小倉百人一首」といった出版物が出て、いよいよ元禄時代の頃から一般庶民の間にも広がっていきます。

やがて、「和歌かるた」と言えば「小倉百人一首」のことを指すようになりました。結果、庶民にも馴染みあるものになったわけです。

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