クルド人問題、分断された民族の歴史はどういったものなのでしょう。
クルド人は2500万人もの人口だと言われていますが、居住地が複数の国に分断されてしまっていて、正確な人口は把握できていないそうです。
また、国によってはクルド人の存在を認めなかったりしますが、祖国なき民族とも言われて、地域には大きな影響力を持っているのです。
クルド人はトルコ、イラン、イラクなどにまたがる山岳地帯に居住しています。クルド語を母語とする民族ですが、山間部に割拠していて、方言が多く意思疎通は困難だそうです。
宗教は、約75%はイスラム教スンニ派ですが、シーア派やアレヴィー教などを信仰している人もいます。
クルド人の歴史
オスマン帝国の崩壊
なぜ、クルド人が数多くの国に離散しているのか、その原因を探ると、オスマン帝国の崩壊に行き当たると言われています。
かつて、オスマン帝国は今のトルコだけでなく、中東地域のほとんどを支配していたのです。
オスマン帝国の支配はイスラム教が根本にありました。そのため、帝国の臣民は民族を越えて、イスラム教で結びついていたと言われています。
そんな状態で、クルド人も、帝国の臣民としてイスラム教を守って、生活を行っていたわけです。
クルド人問題が起こったわけ
各国の思惑が絡む条約
さて、第一次世界大戦後、世界で民族国家の創設の流れができてきました。この空気は中東地域にも広がり、オスマン帝国支配下でも、独立の機運が起こりました。
各民族が自分たちの国家を作ろうとしても、イギリスやフランスがサイクス・ピコ協定という約束によって土地を分割し、いくつかの国家を作ったのです。
英仏の石油利権や単一国家による強大化を防ぐために、中東地域は分割されたわけです。
同時期にクルド人は、第一次世界大戦の連合国とトルコの間でセーブル条約が結ばれ、独立する予定だったそうです。
ところが、セーブル条約はトルコにとっては屈辱的な内容だったため、セーブル条約に反対する運動が起こって、その結果、セーブル条約が撤回されたのです。
また、イラク王国が作られたときにイギリスは石油利権の確保のために、セーブル条約で認めていたクルド人の独立承認の撤回を容認することになったのです。
クルド人問題、現状と課題
クルド人の独立運動
セーブル条約の撤回のために独立国家を認めらなかったクルド人は、恣意的に引かれた国境線のために各国に離散していきます。
1.トルコのクルド人
トルコ共和国の樹立には、クルド人は軍事的にも協力しました。そのため当初は、トルコ人とクルド人は共存することが可能でした。
しかし、トルコの政策と相容れなくなり、対立します。トルコは世俗主義によって、公共の場所ではイスラム教は排除されています。クルド人の宗教観とは相容れませんでした。
さらに、クルド人は公的に自分たちの文字の使用や、クルド人としての主張は禁じられます。
その結果、クルド人は独立運動を画策しました。トルコではクルド人独立運動で代表的なPKKといった組織が生まれていったのです。
2.イランのクルド人
イランでは、1946年にクルド人民共和国=マハーバート共和国が建設されました。しかし、一年も持たずに崩壊したのです。
理由は独立の後ろ盾になっていたソ連の寝返りです。ソ連は石油利権のことで、イランと協定を結び、クルド人の支援から手を引きました。
最終的に、クルド人共和国家はイラン軍に攻め込まれてしまい、独立の夢は終わってしまったわけです。
また、1979年に起きた、イラン革命でも、自治権の獲得に失敗し、激しい弾圧が革命政府によって行われたのです。
3.イラクのクルド人
イラクのフセイン政権はクルド人に対して毒ガスを使用したり、クルド人掃討作戦を実施したりと、弾圧はあまりにもむごいものでした。
ところが、湾岸戦争でイラクが敗北し、クルド人は再び弾圧されるかもしれないという機感から、多くが難民として脱出しました。
ところが、トルコもイランも難民は認めたくないので、迫害します。その状況に対し、国連が声明を発表しました。
この結果、生まれたのが安息地帯で、そこにクルド人は初めて自治政府を持ちました。そして、選挙や独自の軍隊を持つまでになったわけです。
自治政府の誕生から、ISとの戦闘でクルド人が重要な役割を果たすことになり、そこから独立投票実施へとすすんでいったわけです。