長崎くんちは、長崎県長崎市にある諏訪神社の秋季大祭です。国の重要無形民俗文化財に指定されているそうです。
もとは、寛永11年=1634年に、当時の長崎奉行であった榊原飛騨守によってはじめられた神事だったそうです。
そのとき、高尾と音羽という二人の遊女が諏訪神社神前に謡曲「小舞」を奉納したといわれており、これが長崎くんちの起源にあたるわけです。
この記事では、長崎くんちの起源と歴史、名前の由来と諏訪神社の秋季大祭の日程を紹介しています。
長崎くんちの意味
龍踊りで有名な祭り
長崎くんちの歴史
くんちのはじまり
長崎くんちの由来を探っていくと、とても恐ろしい事実にぶつかります。それは、キリシタン弾圧です。
佐賀の修験者である青木賢清が、キリシタンによって長崎で神社・仏閣が破却される状況にあると聞いて、1623年、長崎に来て、諏訪大社を再興します。
1634年、奉行より諏訪祭礼を行うと、お触れが出ます。そのとき、従わぬ者は焼き殺し、他の地方から人々を移民させるといって、庶民を従わせます。
青木賢清は諏訪大社に宝殿、拝殿を造営し、神輿を造って、お旅所を大波止の地としました。
くんちの推移
1647年に諏訪大社が社地を玉園山に賜わりました。1648年8月に仮宮がたち遷宮します。
1634年から1654年までは、7日に11町、9日に10町で1年に21町づつ3年で廻りました。
1655年に、7日9日両日11町づつ6年廻りになります。さらに、1672年、7日9日両日11町づつ7年廻りとなりました。
長崎くんちの名前の由来
重陽の節句と関係があった?
実は、くんちは福岡県、佐賀県、長崎県など九州北部の秋祭りで、その年の収穫に感謝して奉納されるお祭りの呼び名です。
ちなみにこれを日本三大くんちといって、長崎県長崎市の「長崎くんち」、佐賀県唐津市の「唐津くんち」、福岡県福岡市の「博多おくんち」のことです。
「くんち」はひらがなで表記していますが、「宮日」「供日」という字を当てることもあるそうです。
もともと旧暦の9月9日の重陽の節句に行われていたお祭りなので、「9日」のことを九州北部では方言で「くんち」と言ったというのが一般的な説です。
長崎くんちの日程
小屋入り
6月1日に小屋入りがあります。この日からくんちが始まるわけです。踊り町という、その年の当番町が、稽古始めに、祭りの終わりまでの無事を願って参拝します。
その日の午後、打ち込みと言ってその年の踊り町・年番町に挨拶に行き、おはやしを鳴らして廻ります。
庭見せ
10月3日が庭見せです。昔の長崎の町屋は間口が狭く、奥に細長くなっていて、間に中庭があったそうです。
10月3日には、各踊り町の家々は表の格子を取り払って、奥の庭まで見通せるようにしました。そして、前の間には、踊りの衣装や小道具、お祝いの品などを飾ったのです。
人数揃い
10月4日を人数揃い=にぞろいと呼びます。この日が踊り町の総仕上げの日です。各踊り町で、練習してきた踊りを町民に披露するのです。
前日から後日まで
前日
10月7日はくんちの前日ですが、初日になります。踊り場所は諏訪神社や公会堂前広場です。お旅所も諏訪神社と公会堂前広場になります。
時間は7:00、8:00、9:00、16:00、17:00となっています。
中日
10月8日はくんちの中日です。踊り場所は八坂神社と公会堂前広場になります。時間は7:00、8:10です。
後日
10月9日がくんちの後日、千秋楽にあたります。踊り場所はお旅所と諏訪神社で、時間は7:00、8:20です。
長崎くんちの見どころ
みごとな龍踊り=じゃおどり
龍踊りは、他の日本の祭りでは見られない、独特の物です。というのも、数千年前の中国で、雨乞いの儀式が起源だといわれているのです。
もともと、長崎の唐人屋敷の中で、毎年1月15日に行われていたのですが、隣接する長崎市本籠町の町民が唐人に習って、長崎くんちでの奉納踊りにしたのです。
その踊りの技量が増して、日本独特の巧妙な踊りへと発展します。今では、国の重要無形民俗文化財に指定されるようになりました。
踊りは、玉使い、龍衆、囃子方、皺鼓、小鉦で構成されます。交代の人も含めると、龍一頭に80人ぐらいが必要になるそうです。
現在、龍踊りは籠町、諏訪町、筑後町、五嶋町が奉納しています。これらは毎年、長崎くんちで見ることができるんですね。