時の記念日制定の由来とねらい、1日が24時間になった経緯と標準時 | 桃色の雫
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時の記念日制定の由来とねらい、1日が24時間になった経緯と標準時

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時の記念日の由来

天智天皇の時代の故事

6月10日は「時の記念日」だというのは、今では当たり前になっていますね。しかし、その制定の経緯は結構長い道のりだったようです。

まず、6月10日になった理由ですが、天智天皇の10年(671年)4月25日に、漏刻という、水時計を使ったと言うことからなんですね。

天智天皇がその漏刻を用いて時刻を決め、鐘鼓によって初めて時を知らせたという記録が日本書紀に載っているそうです。

そして、大正時代に、日本書紀の記録の日を太陽暦に換算して、6月10日に定めたのが時の記念日なんです。

カレンダーを見ると、さまざまな記念日が掲載されていますね。これらの各種記念日のなかでも時の記念日はかなり早い時期に決められた意義のある記念日だそうです。

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時の記念日制定の経緯

時間を守る必要が生まれた時期

第1回の時の記念日は大正9年(1920)のことです。このころは、社会生活の近代化推進が謳われ、時間厳守などの行動規律、時間の節約による効率化が課題でした。

文部省の外郭団体として生活改善同盟会という財団法人が組織されます。そこで生活改善運動のひとつとして「時間を正確に守ること」を謳いました。

そこで天智天皇の故事ゆかりの6月10日を記念行事として、「漏刻祭」を行い、続いて「時の記念日」の名称が決定したそうです。

戦後になると、時計の業界団体をはじめ各種の民間団体が関連行事を行っています。

たとえば、東経135度の子午線上にある明石市の「時のウィーク」や、天智天皇をまつる大津市の近江神宮の「漏刻祭」が有名です。

さらに、小学校や幼稚園などでも時間の大切さを教えるために、標語を作ったり時計の絵を描いたりしているようです。

時刻の変遷について

時間の大切さをもっと理解したい

時についての最も古い記録は先ほどの日本書紀の漏刻の記載です。この漏刻の時代の時刻は、1日日を12等分していたと考えられています。

その12の時刻には、十二支をあてはめて呼んだんですね。たとえば、子(ね)の刻は現在の午後11時から午前1時の2時間分をいいます。午(うま)の刻とは午前11時から午後1時です。

これくらい大雑把でも事足りていたのが、江戸時代まででした。近代になると、さらに細かい時刻制度が必要になってきます。

そして旧暦の1872年(明治5年)12月3日、太陽暦では明治6年1月1日に国の暦が太陰太陽暦から太陽暦に変わったんですね。

そして、それに合わせて、時刻の呼び方も現在と同じ定時法の時刻制度で1昼夜24時間に定められたわけです。

世界の時刻と日本の時刻

グリニッジの標準時

1884年(明治17年)にアメリカのワシントンでイギリスのロンドンにあるグリニッジ天文台を通る子午線を経度の基本とすることが決まったんです。

それまでは、各国各地がばらばらに経度と時刻を使っていたのですが、各国の交流が増え、交通、通信の発達にあわせて世界共通の時刻制度が必要になってきたわけです。

日本の標準時

1884年(明治17年)グリニッジ天文台を通る子午線を経度の基本とし、そこから経度が15度ずつ隔たる毎に1時間ずつ時差を持つ時刻を各国で使用すると決まりました。

そこで、日本も1886年(明治19年)に東経135度の子午線の時を日本標準時とすることを決め、1888年(明治21年)1月1日から実施したのです。

歴史と伝統を大切に
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